1980年からプログラマしています

どうしてプログラマすることになったか書いています。過去日記です。

プラス・ワン 恒例のお墓参り

 澤井さんのお骨は、先祖代々の墓に入れられている。命日には、必ず訪れることにしています。自分の親の墓になんて滅多に行かないのにねえ(笑) 

 今年は何か弔いをした感じはなかったかな。いつも通り、手向けは、ベビースター・ラーメン、アサヒ・ドライ、マイルドセブンは、もうないのでMEVIUSというタバコを置いてきました。

 手を合わせて目をつぶると、一緒に仕事をしていた頃の澤井さんの顔が、ありありとうかびます。心から、ありがとうと言いました。本当にお会いできないのが残念です。

 ここ数か月、ブログという形で、澤井さんの事を思い出して、過去日記として書きました。こんな凄い人のことを風化して欲しくないな、と思います。

 もし、澤井さんをご存じの方がいれば、是非ブログでもホームページでも何でも、想い出や、伝説があれば語って欲しいと願っています。

 未来は、過去の延長上にあります。過去を知ることは歴史を学ぶことと同時に、未来を知ることでもあると思います。

 魂が不滅であるとすると、澤井さんはあの世でも何か凄いことをしているんじゃないでしょうか。

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プラス・ワン お墓参り(20XX年)

 澤井さんは、普通の人の2、3倍位もの濃い内容で人生を送ったと思えるが、それにしても早かった。澤井さんのお母さんは、今でも優秀な息子を亡くした悲しみから解放されていない。

 毎年813日にお墓参りに行くが、本人のお墓でなく、澤井家先祖代々の墓にお骨は入れられている様子だ。親より早死にした親不孝者だから?

 それでも何年ごとかには、法要が行われて、卒塔婆には、澤井健の名前も書いてあったのを見つけてほっとした。

 一度、お墓参りに行かなかった年があったが、その翌年の命日、昼間会社で仕事をしていて、初めて金縛りにあった。霊感は強い方ではないが、自分の親の死に目に、祖父や祖母が見に来ていると感じたことはあった。目の前が真っ暗になり、体に乗り移られた様な感じの時に、鉛筆握ってみれば良かったかな。ひょっとして何か伝言しようとして人の体に乗り移ろうとしていたのか() イタズラ好きな澤井さんが偲ばれる。

 それ以降、毎年のお墓参りは欠かしていない。いつも必ず、マイルドセブン(もうないので違う銘柄だが)、アサヒドライ缶ビール、ベビースター・ラーメンという澤井さんの三大好物を持ってお墓参りに行っている。そして手を合わせて、ありがとうと言っている。

 

ちなみにこの話に出て来た故人の命日。敬称略。

澤井健 2001813 42歳没

笹田剛史 2005930日 肺がんで死亡 64歳没

小松左京 2011726日 80歳没

東祥高  20121011日 肺がんで死亡 64歳没

 

 澤井さんが切り開いた建築CGアニメーションという歴史の足跡を思い出して頂ければ幸いに思います。

プラス・ワン 澤井健永眠(199X年)

 辞めてしまったので、その後プラス・ワンがどうなったのかは、詳しくは分からない。プラス・ワンは、東京にあるバスという建築設計事務所と提携して、バス・プラス・ワンとなった。澤井さんは、離婚してVECの女性スタッフと再婚。VECの東京事務所を作って、東京に引っ越した。その後、バス・プラス・ワンで、製作費を支払ってもらえない案件が発生して、バスとの提携はリストラにより解消。澤井さんに借金が残った。

 そして、2001813日。澤井健、享年42歳にて永眠。朝方、澤井さんが起きてこないと思って、奥さんが寝室に行ってみると、冷たくなっていたそうだ。救急車を呼んだが、意識は戻らなかったそうだ。その後司法解剖されたらしいが、死因は不明であった。

 告別式には、総勢200名以上の人が澤井さんとのお別れにやってきた。VECのスタッフで、実家がお寺のUさんが法要をした。Uさんは、悲しすぎるので、もう二度と友人の葬式はしたくないと言った。私は澤井さんとの最後のお別れに、おでこを何度もなでなでして、別れを惜しんだ。

 葬式が終わっても、誰も葬儀会場から動こうとはしなかった。皆、口々に澤井さんの想い出を語っていた。家族の人から、帰ってくださいと何度も放送があって、やっと足取り重く、家路についた。

 VECで澤井さんの秘書をしていた女性は、どうしても澤井さんが死んだと理解できないので、宇宙旅行に出かけたと今も信じている。私も宇宙旅行説を信じている(2001年宇宙の旅!)。澤井さんは、どこかで生きていて、ある日ひょっこりと再会できそうな気もする。

 それにしても、司法解剖なんかせずに、そのままにしておけば良かった。昔も、一週間くらい死んで生き返った人もいたらしい。澤井さんが「あー、よく眠った。」と思って起きても、解剖されてしまったのでは生き返れない。残念だ。

プラス・ワン 寿退社(199X年)

 プラス・ワンに入社当初の、スタッフ全員が力を合わせて1つの仕事を完成させるというワクワク感が消えて、日々目の前の仕事をこなしている感じが強くなっていった。

 澤井さんはVECに行ったきりで(と行っても同じビル内の事務所なので、どっちかの事務所に寝泊まりしていたのだが)、建築CGの仕事にはあまり関わらなくなっていた。澤井さんが、CGアニメーションを作るのは年に1、2回位であった。

 HPのグラフィック・エンジンは将来なくなるので、このままではいけないと思って、DOSで動く3DS MAXを購入した。制作部のスタッフは、VPXに慣れ過ぎてしまって、3DS MAXへの移行が進まなかった。ちょっと心配になった。

 その時、会社の中では、次々にカップルが誕生していた。最初は、恋愛禁止令を敷いた澤井さんだったが、自分がVECスタッフの女性と恋愛して離婚、再婚するという、相変わらず掟破りな行動を取った。私の方は、お見合いしたところ上手く話が進んで結婚することになった。

 そして、会社のミーティングの時に「結婚するので辞める」と宣言した。男なのに寿退社(笑) 澤井さんから一応は引き留められたが、何とか了承してもらえた。私が退職する前に、澤井さんは急遽スタッフを3人雇った。会社辞めるまでの間、連日3人に講習会をしてCGをみっちり仕込んだ。年末はお別れ会をして、翌年にゲーム会社に転職した。

プラス・ワン 創立10周年(199X年)

 プラス・ワンに来て10年近く過ぎていた。澤井さんの超人的とも言える、知力・体力・気力と、澤井さんを尊敬するスタッフの全員の力で、プラス・ワンは大きく成長していた。最初6人、10畳ほどの事務所からスタートして、社員数は15名を越え、江坂駅前のビルに引っ越し、バーチャル・イーストという姉妹会社も経営していた。

 技術部も私1人だけだったのが、5名に増えた。VPXのメンテナンスや、たまに制作を手伝ったり、ソフトウェア開発の仕事を受けたりと、相変わらず忙しかった。

 ある日、東京に出張した時に、昔東京のUMEXで知り合った人から「ちょっと遊びに来ませんか。」と連絡があった。軽い気持ちで出かけると、豪華な結婚式場のビルにある凄い広いオフィスに案内された。そこには、見たこともないSGIワークステーションが大量に置いてあった。濃いコバルトブルーの丸い形をしていて、電気釜のような形だった。

「これ、O2というやつなんだけど、次のSGIの新製品で、わが社専用のラインで製造しているんだよ。」と言っていた。

 そしてデモリールも見せてもらった。驚くことに日本中のCG制作会社に発注したゲームのオープニングのCGアニメーションであった。これから海外のCG制作会社にも発注して行くという。

 最後に、サーバー・ルームを案内された。そこには、一台1億円もするPOWER CHALLENGEサーバが3台あった。目が点になった。

「良かったらここで働きませんか?」遊びに誘った訳では無かった。

プラス・ワン CG全盛期へ(199X年)

 VPXユーザ会は、年に一回催して、各社が制作したCGアニメーションを上映したり、澤井さんの講演をお願いしていた。澤井さんは、どんなに忙しくても、何も準備していなくても、檀上に上がって「えー…」という第一声を発すると、その一瞬で今日話す内容を頭の中にまとめてしまい、淀みなく話した。会場が多少ざわついていても、澤井さんが低い声で話し出すと、誰もが澤井さんの話を聞き洩らさないようにと静かになった。

 それにしても、HPのグラフィック・エンジン、TurboVRXの後継機が出ないのには困った。唯一発表された小型のグラフィックス・エンジンCRX24Zを購入して、VPXを移植してみたが、テクスチャマップの描画が目で追えるほと遅かった。TurboVRXのパフォーマンスからは程遠かった。

 SGIにも移植してみることにした。この頃は、IrisGLからOpenGLに変わったところだった。やっぱりTurboVRXの様なパフォーマンスは出なかった。WindowsNT、当初3Dグラフィックアクセラレータもなく、全く使い物にならなかった。

 ワークステーションも各社から次から次へと発売されていた。安いワークステーションを数台並べてレンダリングして、高品質なCGアニメーションを制作できる時代になりつつあった。VPXとソフトで競合する会社も現れて来た。

 しかし、建築みたいな莫大なポリゴンデータで、分単位のアニメーションを作ることを考えると、まだまだグラフィック・エンジンに分があるように思えた。プラス・ワンには、まだまだ仕事はあった。でも、いつまでも優位が続くかどうか、もう時代が追いついてきそうな気配であった。

プラス・ワン ゼネコンCG狂乱(199X年)

 バブル全盛時代、ゼネコン各社も建設技術には大きく差がないので、3DCGアニメーションで技術力を競うようになって来た。ゼネコンが、まるでSFの様な、超高層、海底都市、月面や火星の宇宙基地をCGアニメーションで作って見せた。

 当初、ゼネコンは自社開発のCGを競っていたが、やがて、CGプロダクションと同じ設備とスタッフを雇い入れるところまで現れた。自分達のネームバリューを上げるために始めたのだろう。ゼネコンの会社規模からすると。CGプロダクションを1つ作るのは難もない。

自社の建築CGアニメーションに加えて、NHKの番組のCGアニメーションを制作(しかも格安、もしくは無償で)するまでになっていた。やりすぎだろうと思った。

 しかし、ゼネコン社員とCG制作社員(毎晩会社に泊まり込んでCGを制作する人達)とは、水と油ほど違う文化なので、やがてはCG制作に関わっていた人たちも、追い出されていった。

 他にも中小の建築設計事務所でも、パソコンのCGソフトで建築パースを作るところも現れた。もう建築CGは普及期に入っと思った。ハードが速く安くなり、 CGソフトウェアもそう高くない値段で買える様になった。作ろうという意志さえあれば、誰でも作れるようになってきた。