1980年からプログラマしています

どうしてプログラマすることになったか書いています。過去日記です。

プラス・ワン 阪神淡路大震災(199X年)

 阪神淡路大震災が起こった日にも、制作部のYさんは泊まり込みで仕事をしていた。朝方の猛烈な揺れで、書庫や本棚は倒れ、ワークステーションの19インチもの巨大なディスプレイが横に吹っ飛び、停電して、全ての機能が停止した。Yさんは机の下に隠れて無事だった。

 Yさんは、地震のせいで納期が遅れると、東京のクライアントに電話したが、信じてもらえなかったそうだ。兵庫大阪で、震度7もの地震があったとニュースで流れて、やっとその凄まじさがわかってもらえた。

 会社に行こうにも、電車はすべて止まっているので、自転車で行った。途中、家は崩れ、ビルの壁は崩れ落ちてたりと、凄まじい光景だった。事務所に着くと、あらゆるものがひっくり返っていた。

 とりあえず、会社まで来れた人達でひたすら片付けをした。来れない人は自宅待機にした。毎日自転車で通って、3日間ぶっ続けで片付けして、ようやく仕事ができる様になった。幸いにも、コンピュータは電源を入れると、元通り動いた。

 それから書庫や書棚の補強もした。今まで積み重ねていただけの書庫は、上下を固定する金具をつけて、書棚も背面に角材を入れて補強した。ディスプレイも飛ばない様に固定した。

 ビルの壁面にも少し亀裂があったが、幸いにも補修で済む程度だった。会社はなんとか復旧できたが、神戸方面から通っている人は、ライフラインも止まって、しばらく辛い状態が続いた。

プラス・ワン 澤井さん首の骨を折る(199X年)

 澤井さんは、アメリカのA/E/Cシステムズという展示会を見学するために、フロリダに外遊していた。ついでにフロリダのディズニー・ワールドにもでかけたらしい。帰路、同行していた建築設計事務所の人に車の運転を変わった後、フリーウェイの路肩のくぼみにタイヤを取られて、あろうことか車は横転した。不幸なことに、澤井さんはシートベルトをしていなかった。

 会社に電話が入った。「車の事故で澤井さんが首の骨を折った。」

晴天の霹靂とは、このことである。目の前が真っ暗になった。これでプラス・ワンも終わりか。今は緊急手術を受けて、アメリカの病院に入院しているという。3週間が過ぎた頃、飛行機で帰ってくるという連絡があった。

 伊丹空港まで、社員全員で迎えに行った。タラップから誰も降りてこなくなってもまだ現れない。どうなっているんだろうとヤキモキしていると、飛行機の後方の出口から、スチワーデスさんが車椅子を押しながら出て来た。澤井さんだった。サングラスをしていた。歩けない上に、目が見えないのか。手が震えた。

 車椅子が近くに来た時、「おーい!」と言って、澤井さんが立ち上がって手を振った。

「ええーー????????」(皆一同)

「迎えに来てくれたんやね。」

「だ、大丈夫なんですか?」

「えー、まー、何とかね。」

 首には、ムチウチの人がつける大きなプラスチックのギプスが巻かれ、頭に鉄の輪っかがついていた。その輪っかには鉄の支柱がついていて、肩当てにがっちり固定されていた。自由の女神の王冠みたいな感じである(トゲトゲはないが)。首は絶対に動かしてはいけないのだろう。

 澤井さんは、そのまま自宅に帰ってしばらく療養していた。2週間後、会社に鉄のっかをつけて歩いて出社して来た。流石に徹夜は、しなかった。2か月後に鉄のっかは、はずしてももらえて、首の回りのギプスだけになった。でもなかなか体力が回復しなくて、辛そうだったので、養命酒を勧めた。これが効いたみたいだった。また会社に泊まり込みしだした。

 いったいどれだけタフなんだろう。まだこの世ですることがあるから、きっとあの世から追い返されたに違いないと思った。

プラス・ワン HPのグラフィックエンジンの終焉(199X年)

 プラス・ワンは、HPシリーズ700TurboVRXを追加購入して、3台のグラフィック・エンジンを使うようになっていた。このパワーのお蔭で、少々仕事が増えても大丈夫だった。相変わらず長尺のアニメーションを量産していた。

 しかし、HPの新製品の発表会で、ハイエンド・グラフィック・エンジン路線はなくなり、サーバ中心のラインアップに様変わりしてしまった。

 唯一、後継機として発表されたのは、シリーズ700CRX24Zという廉価版の機種だけだった。テクスチャマップをリアルタイムで表示できるTurboVRXの系譜は断たれてしまった。せめてダウンサイジングして欲しかった。

 そして、TurboVRXのグラフィック・エンジンを開発して来た人達もHPから去って行った。その人達は、どこに行ったのかというと、シリコン・グラフィックスに行って、ONYXのInfinite Realityというグラフィック・エンジンを作った。

 ONIXのInfinite Realityには、i860のジオメトリ・エンジンが複数枚させるようになっていた。TurboVRXと似ている。偶然か?と思ったが、後にYHPの人に聞くと、同じ人達が作ったそうだ。なんか悔しいと思った。

 ここからは想像なんだが、その人達は、WindowsNTビジュアル・ワークステーションCobalt Chipを作った後、SGIを去ってNVideaになっていったのではないか?

 そもそもその人達は、HPに吸収合併されたアポロ・コンピュータにいた人達ではなかろうか?

 アポロ・コンピュータは、1980年代にSIGGRAPHレイトレーシングCGアニメーションを発表するほどグラフィックに熱心だったワークステーション・メーカーであった。

 インターネット全盛の時代でも、かなり昔の話なので真偽の程は確かめられなかった。

プラス・ワン プレステ初の音ゲー(199X年)

 これ以上お金をかけると、バーチャル・イーストが倒産する。話し合いの結果、澤井さんとM氏は、袂を分かつことになった。M氏は、企画をソニーに持って行き、制作は継続することになった。プラス・ワンの制作部のD君が出向して、アニメーション制作を手伝うことになった。

 M氏の企画は、プレステの初の音ゲーになった。完成したというので、プラス・ワン社内で見せてもらった。制作部の女性スタッフから、かわいいー!という声が上がった。澤井さんの反応は、冷ややかだった。

 それがメガヒットしてしまうのである。逃がした魚は大きかった。プラス・ワンのNo.1アニメータD君のペラペラなポリゴンキャラクタのアニメーションが秀逸だった。さすがD君だった。

 でも、実はペラペラなポリゴンキャラクタのアニメーションのアイディアは、澤井さんがM氏と一緒に制作したマックのCD-ROM作品で編み出した手法であった。

 元祖は澤井さんだったが、D君は自分の中で見事に消化して花を咲かせた。これはD君の才能と努力の賜物であった。

プラス・ワン VEC社長交代(199X年)

 バーチャル・イーストが発足してから、最初の東(あずま)社長は大したこともしなかった。取締役会で東社長が増資の話を切り出したところ、代表は交代になって、澤井さんが代表取締役社長になった。建築CGアニメーションの制作の方は制作部の部長N氏やD君に任せて、澤井さんはマルチメディア作品の制作に邁進することになった。

 ニュートン・スタジオのミュージシャンM氏の企画によって、プラス・ワン制作のCGアニメーションが、M氏のコンサート会場で流れるミュージック・ビデオ・クリップになったり、MacCD-ROM作品が制作された。プラス・ワンの江坂事務所には、澤井さんとM氏がよく徹夜で泊まり込んでいた。

 しかし、マルチメディアのタイトルはビジネス的には苦しかったようだ。プラス・ワンは、最初に依頼があってから仕事を受注するので、必ずお金がもらえる仕事であった。それに比べて、CD-ROMは作って売れるかどうかは、やってみないと分からなかった。そんなこんなで、バーチャル・イーストの資金繰りは苦しくなって行った。

プラス・ワン マルチメディアへ(199X年)

 マルチメディアがブームになった。CD-Iという規格や、静止画やアニメーション、音楽を組み合わせたCD-ROM作品が作られ始めた。それはMacの普及ということも連動していた。

 マルチメディアの影響で、レーザーディスクにレーザー・アクティブという機能が追加されて、プラス・ワンでもレーザーアクティブ用の映像素材の依頼を受けて制作したりした。建築とは全く関係のない宇宙船やエイリアンが出てくるものだったが、アニメータのD君が頑張って作った。D君は、まだ20代の若者であったが、アニメーションの センスには光るものがあった。澤井さんから全幅の信頼を得て、プラス・ワンのNo.1アニメータとして活躍していた。

 新しいもの好きの澤井さんは、マルチメディアに直ぐに飛びついた。そして新会社を作ることになった。在阪のCGアーティストたちとミュージシャンをも巻き込んで、バーチャル・イースト・コーポレーションという株式会社が設立された。

 かっこいいネーミングの様であるが、そもそもニュートン・スタジオの代表、東祥高氏(あずま よしたか氏。故人)が代表取締役になった。東さんは、NHKの国宝の旅とかのBGMを作曲していた。ニュートン・スタジオって、東(あずま)さんをトンさんと呼んで、 新しい東さんの会社だから、ニュートン・スタジオというベタベタなネーミングだった。バーチャル・イーストのイーストも東さんのことである。バーチャルと 言ったのも当時の流行り言葉だったからであろう。

 バーチャル・イーストの設立を祝って、小松左京氏(故人)もかけつけて相談役になってくれたのだった。

プラス・ワン 仲直り(199X年)

 A/E/Cシステムズの座談会の爆弾質問以降、笹田教授は大きく方針を転換した。プラス・ワンとCGアニメーションで張り合うのでなく、全く別のODE(Open Design Enviroment)というコンセプトを打ち出し、CGアニメーションはその中のほんの一部であるというスタンスにした。さすが大学者である。

 そして1年後、とある大学教授の仲介によって、笹田教授と澤井さんの仲直りが行われた。私も澤井さんと一緒に菓子折りを持って、阪大の笹田研究室に挨拶に行った。

 笹田教授と澤井さんは、一言、二言会話を交わしただけで、笹田教授が一方的に澤井さんを罵倒するようなことはなかった。実は、何かあるといけないと思って、小型のテープレコーダをポケットに忍ばせておいたが、無用だった。とりあえず良かったと胸をなでおろした。それ以降、笹田教授の介入は無くなったのである。澤井さんからも話が出なくなった。

 ところで、笹田研究室にはやたら猫がいた。猫のうんちとタバコのにおいがミックスされた研究室だった。