1980年からプログラマしています

どうしてプログラマすることになったか書いています。過去日記です。

JCGL 制作部の伝説(198X年)

 当時、モデリングソフトや、GUIなんてなかった。ポリゴンはグラフ用紙に図を描いて、座標の数値をテンキーで入力していた。アニメーションのモーション・パスですら、緩急をも考慮して、グラグ用紙の座標を読み取って入力していた。

 NYITレンダリングアルゴリズムは、Zバッファだった。今では当たり前のテクスチャ・マッピングすらなかった。Zバッファでは、アルゴリズムの都合上、透明体の表現ができない。

 レンズマンの映像ディレクター大口孝之氏は、オプチカル・プリンターで、20枚ものCG画像をコンポジットをして、レンズマンのオープニング・シーケンスを作り出した。

 フィルムに薄くワセリンを塗ってダビングすると、モーションブラー効果になったり、光学的なエフェクトも、マスク用のCG画像を別々に作り、露光オーバーにしてフィルムでダビングして、オプチカル・プリンターで重ね合わせて作り出したと聞いた。CGでできない事は、映画の特殊効果を応用していたのである。

 Zバッファなので、アンチエリアシングもできなかった。エリアシングを軽減する簡単なフィルタ・プログラムもあったが、ところどころ黒い点が残ったりした。それは、1ピクセルずつ手作業でペイントで丹念に修正された。アニメーションのフレーム数分、何百枚もである。

 こういう制作部の凄い人達がもの凄い努力で、海外のCGプロダクションからも一目おかれていたJCGLの映像を支えていた。